休和語録      三輪休和 略年譜
朝日新聞社刊「人間国宝三輪休和」より
 
「土踏みにしても、土踏み前の土作り、それにロクロ、焼き上げと
得心のいくところまで追求する性分なんです。
それが自分の作品に、自分の血を通わせることでもありましょうが、
とにかく荷造りまで自分でやらんと気がすまんのです。


  読売新聞(西部本社発行・昭和41年2月9日付)より

 
「50余年問、作陶一筋に生きてきましたが、最近ようやく老境を
おばえるようになり、仕事もどうにかひとくぎりついたように思われますので、
こんど弟に世代を譲って閑居することにしました。
これからは国の無形文化財としてはずかしくない余生を静かにおくりたいと
思っています。
  毎日新聞(西部本社発行・昭和42年6月3日付)より
  (十代休雪を隠居に際して)休和72歳。
「陶芸が最近ブームを呼ぶようになったことはうれしい。
萩焼にも新進作家がたくさん出て、この人たちの努力で今日の降盛を見た。
私は年齢的には長老だが今度の受章は萩焼全体に対する受章と考える。
仏統工芸というものはどんな困難な時もこれを維持する責任を負わされており、
今後とも萩焼の向発展に努力したい」
  朝日新聞(西部本社発行・昭和42年11月19日付)より
  (紫綬褒章受章にあたって)休和72歳。

 
「来月20日で満75歳。身も心も枯れ尽しましての。茶陶の仕上げはこれからでごわす。
隠居してから心にもゆとりが出ました。あと何年生きられますか、なんにもわずらわされず、
余生をかけてーこれが休和−といわれる物を残したい」
「古い血統には時に新鮮な血をつぎ込まなきゃならん。オイもわしも一徹な男同士。
300年の家霊の中に いつかはわしもはいり後代に生返ります」
  朝日新聞(西部本社発行・昭和45年3月28日付)より
  (重要無形文化財‥‥人間国宝=認定にあたって)休和  74歳




「芸の虫というだけのことでごわす。根っからのに石部金吉でしてな。
こんどの受賞も、年寄りの肩には荷が重うごわす。無冠の大夫のままの方が、
気楽で良かったのじゃが。

中央でこれまで、とかく田舎窯扱いされて来た萩焼がいとしゅて」

「さよう、土ごしらえの時から、真剣勝負の気合でごわす。
この世界はどれほどな名手でも、腕前には限界がある。
それが無いといえば気負いだし、てらいにもなります。
土は生きとります。土の方で働いてくれるよう、仕向けますのじゃ」


「いい職人はもともと一徹者でごわす。わしも性分で、やりだすと、とことんこります。
壮年時代の10年ばかり、畑仕事をしましたがの。
タイ肥づくりの落ち葉かきから草刈り、土寄せと、一切を自分で取り仕切らねば気がすまん。
ウネを立てるにもタネをまくにも、糸を引いてぎっちりやる。
ミゾは竹ボウキで掃き清めましてな。近くの小学校七で年一回、恒例の農作物品評会があります。
ひょいと気が向いて出品したところが、一、二等の五点全部を独り占めしてしもうた。
何をするにも、自分の手をかけるのが、コツでごわす。」

「ひそかなる 心を持ちておわりけむ 命のきわに いうこともなく」―
釈超空の歌でごわす。人生晩年の、円熟しきった達人の心境でしょうの。
わしの現世の理想をいみじくも、格調高くうたいあげた。強くひかれますなあ。
そういえば私には若いころから、よくいえば老成、悪くいえば
年寄りじみたところがありましたな。
飲む、打つ、買うーだあいもないことを生きがいのようにいう知った手合いもいましたが、
わしにはとんと関心がなかった。そんなことでささくれだち、生ぐさく騒ぐ心がわずらわしい。
私一生のの願いはこの歌にもある「ひそかなる」起居のたたずまいでごわしたな。



わび、さびの中に身を置いてひっそり、自分の手で確かな物をつくり出す。
こんな充実した喜びがありますじやろうか。わびなどといいましても、
陰者的な遁世(とんせい)ではごわせん。
騒ぎやすい心の贅肉(ぜいにく)を、強い意志力でそぎ落す。
最も合理的な考え方を心底にすえて、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)心にきびしい節制を課す。
わしの願うた男の姿でな。こんな資質の私です。
気楽な話相手も友人も、結局のうて年をとった。
作陶三昧(ざんまい)と、そばにいるのは妻だけ。世間的には孤独に見えるのかも知れん。
だが私にはこれ以外、どんな生き方もなかった、と悔いるどころか感謝すらある。

「鑑賞の目を養うにはいいものを直接、手にとってみることでごわす。
悪いものの記憶は片端から消してしまう。
変なものは絶対身近に置かないというだけの心の節度が必要です。
茶わんの格といいますか、気品はおのずとわかってくる。
口づくり、高台ひとつをみても、同じ型のものなら名工の作と凡手では
どうしようもない差がみえてくる。
ああここまでわかってきたな、ということが一生つづくわけでごわす。
芸の底の奥深さ、ゆかしさとでももうしましょうか」
  朝日新聞山口版(西部本社発行・昭和45年4月18日付)より
  (重要無形文化財―人間国宝―認定にあたって)休和74歳

付き合いべだの無骨なわしが、人問国宝になって、位人身を極めたと、お祝いをいわれる。
小さい、小さい、いっこくもの、ととられるかもしれんが、わしは無冠の大夫の方がよかった。
えらい肩書のある作家と、野人のわしの作を並べて展観して、
わしの作がまさったら、これは愉快じゃろ。
力の確信、これが男の幸福、生きがいちゅうもんじゃなかろうか。
わき目もふらずやってきた一生でしたな。

 
そういえぱ三十歳ばかりのころ、全国の名器拝見行脚をした。
三井財閥の当主に会うた際です。古萩の茶碗を見せてもらうことになった。
執事にでも命じるかと思ったら、倉の出し入れまでちくいち、自分でなされた。
大茶人のたしなみに打たれたが、それ以上に、名陶の受ける尊敬には心がふるえましたのう。
男子一生の仕事として、も一つ、性根の通った忘れられん思い出でごわす。

 
 いまに至るも、しのぐものなしといわれる名工、光悦、長次郎などを見なされ。
何百年後のいまも堂々と生きちょる。
わしを評して枯淡の境地というものもおるが、どっこい、胸はふつふつとたぎりますのじゃ。
二百年、五百年後に生きるわしの、精魂をつぎこんだ作を考えますとのう。
現世の名声などはほしゅうはない。
わしだけのめがねにかなう物ができれば、それで本望。
国宝・休和で死ぬのじゃのうて、本名の人間邦広として眠りますのじゃ。
『ひそかなる心を持ちて』な、『いのちのきわ』の歌通りのう」
  朝日新聞(西部本社発行・昭和46年1月14日付)より 休和75歳

 
「百年、三百年先にも、これが休和の作品だ、といわれるものを残したい」
  朝日新聞山口版(西部本社発行・昭和48年4月29日付)より
   (勲四等旭日小綬章を受章した時)休和77歳

 
「せめて1千万円になるまでは死なれませんですのう」
  (「三輪休和芸術文化育英基金」の寄金について)
 
 
「土にさわらんと夕食がうまくないんですのう」
  朝日新聞山口版(西部本社発行・昭和53年4月21日付)より
   (誕生日インタビュー)休和83歳

 
「普通の職人ならば20年もやれば、だれでも達者にはなれる。しかしそれからがむづかしい。
名工とか達人とかいわれる境地にいくには、技術以外に自分白身の心境を高めるほかない」
  昭和56年10月31日・萩市名誉市民故三輪休和先生萩市葬「プログラム」より


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