はるか5千年も昔の中国のこと、長江中流の湖北省隋州に、
後に神農炎帝と呼ばれる一人の男の子が産まれました。
この子の母・女登は、旅先で龍神の霊気に触れて妊娠したのでした。
男の子の成長は速く生後三日で喋り、五日で歩き七日で歯が生えました。
やがて身長は八尺七寸(約2m60cm)となり、たくましく探究心旺盛で
思慮深く育ちました。

姜という部落の首領となった神農は領民の生活や健康に心を砕きます。
狩猟、漁労が中心だった時代、穀物栽培のノウハウを編み出しました。
また、鍬、鋤の原型となる農機具を発明し農耕による生活の安定を図りました。
これが「神農」の名の由来です。

また、油分の多い木を束ねてつくる松明を発明したとも言われます。
人々に明かりと熱をもたらし、火によって徳を得たことで
「炎帝」(えんてい)とも呼ばれるようになります。

日を定めて物資を交換することを始めて、市場や交易の原型も築きました。
これが商売の神様と言われるゆえんです。

当時の人々は、生水や生ものでおなかを壊し、
病気や怪我を負っても、治すすべを持たずに苦しんでいました。
そこで神農炎帝は自ら山に入り、目にした草木を端から調べ、
人のためになるものと有害なものを見分け、
薬になる物とその効能を人々に伝授しました。

神農炎帝の調べ方は独特です。
手にした赤い杖で草木を砕き、自分で服用して試します。
驚くことに、神農の胴体は水晶のように透明で、外から内臓が見えました。
有害な草を食べると内臓が黒くなり、毒があることがすぐにわかります。

あるとき、一日で72もの毒にあたってひどく苦しみます。
その時そばにあった、白い花のさわやかな香りのする若葉を口にすると
その葉は腹の中をくまなく移動し、体内の毒が消え体が回復しました。
その葉の様子は、まるで腸を検査するようだったので、
神農炎帝はその葉を「調べる草」という意味を込めて「査」と呼びました。
それがいつの間にか「茶」に変化したと言われます。

それ以来、神農炎帝は毒にあたっては茶で毒を消し、さらに薬草を
集めていきました。
しかしある時、黄色い花を付けた小さな草を口にしたところ、
腸がねじれるような激痛が走ります。その時に限って茶を口にすることが
間に合わず、猛毒によって腸が分断され命を落としてしまいました。
この毒草は「断腸草」とも呼ばれるようになりました。藤に似た黄色い可憐な
花を咲かせる(コウフン)というフジウツギ科の猛毒のある植物で、
和名を「つたうるし」といいます。

 神農炎帝が調べた薬草は『神農本草』として伝承され、後漢から三国時代の
頃にまとめられたのが、中国最古の薬物書と言われる『神農本草経』です。
ここには、神農が選抜したとされる365種類の薬物が、種類(草木、鉱物等)
効能(命を養うもの、体力を養うもの、病気を治す薬効の強いもの)、味や
性質などとともに紹介されています。神農本草経はその後も再編纂され、
今日の中国医薬、漢方学へと発展しています。
農業、医薬、火、商売、易の神として、神農炎帝は現在も信仰されています。
湖南省の炎帝陵など、ゆかりの地は人気の観光スポットになっています。
日本でも、東京の湯島聖堂、大阪の少彦名神社など、各地に祀られています。


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